西郷どんの原作をネタバレ!

西郷どんのネタバレ

江戸幕府の土台がゆらぎ始め、西洋の列強国が日本に姿を現すようになり、幕末動乱の兆しが見え始めたころ、薩摩国の下層藩士・西郷吉兵衛隆盛の7人兄弟の長男として文政10年(1827)に西郷吉之介(隆盛)は生まれた。

18歳になると薩摩藩の迫田太次右衛門利済(さこただじうえもん としなり)に仕える。

西郷が22歳のときに、薩摩藩主・島津斉興(なりおき)の後継者問題を巡って、正妻の子の島津斉彬(なりあきら)と側室の子の島津久光(ひさみつ)の対立が起こり、西郷の知古である赤山靱負(あかやまゆきえ)の死に直面する。世にいう「お由羅騒動」である。

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お由羅騒動が治まって島津斉彬が薩摩藩主となった2年後の嘉永6年(1853)に、ペリーの黒船が浦賀に来航する。翌年江戸幕府は、日米和親条約を結ぶ。

人に尽くす西郷どん

ペリー来航の前年にスガと結婚した西郷だが、同年に祖父、父、母を失い、長男だった西郷が家督を継ぐ。

早くに両親が亡くした西郷隆盛は家計を補うため役人の補佐として奉行所で働いていたものの、貧乏で飢えに苦しむ民を見てしまうと、困っている人たちを助けたい!という思いが先行し、自分の給料や食料を全て与えてしまうのだった。

後先考えずに人助けを繰り返している西郷隆盛に西郷家の面々は困り果てているのだが、西郷隆盛は家族からの心配を気にとめる事はなく、むしろ空腹である事を笑い飛ばしていた。

貧しい人たちに愚直に尽くす西郷隆盛の姿勢に注目したのが、薩摩藩のカリスマ藩主だった島津斉彬(しまづ なりあきら)。

安政元年(1854)に、西郷は島津斉彬の参勤に伴って、江戸を上ることなり、江戸で斉彬の庭方役(秘書)に任命される。

西郷どんの江戸での恋をネタバレ

「民の多くが幸せになる事が国を強くする!」

島津斉彬の思いに共感した西郷隆盛は、島津斉彬の密命を担い、京都や江戸へ足を運ぶ。

また、島津⻫彬の養⼥で、13代将軍徳川家定に嫁⼊りした篤姫と下級武⼠だった⻄郷隆盛との間に淡い恋がうまれる。

 

西郷は江戸で水戸学の大家、藤田東湖と出会い師と仰ぐが、藤田東湖は安政2年(1855)の江戸の大地震で家屋の下敷きになって圧死してしまう。

島津家の騒動で、西郷がお由羅の暗殺を計画するが、斉彬によってやめさせられる。島津家の騒動は、斉彬が久光の子を養子に迎えることで決着した。

 

江戸で国事に奔走する西郷は、家庭を省みることができずに、わずか1年足らずでスガと離婚する。安政3年(1856)に、島津家の篤姫(あつひめ)が徳川家定に嫁ぐ。将軍となった家定だが、病弱だったためにすぐに後継者問題が持ち上がった。

一橋慶喜を推す一橋派と、徳川慶福(よしとみ)を推す南紀派が対立し、島津斉彬は一橋慶喜の擁立を西郷に任せた。このときに西郷は僧侶の月照と出会い、慕うようになる。

開国を迫られていた幕府は、南紀派の代表の井伊直弼(なおすけ)が孝明天皇の許可を得ないまま、日米通商条約を強行し、次期将軍を南紀派の慶福に定める。

 

江戸幕府の大老となった井伊直弼は、一橋派を弾圧し始めた。反対派の島津斉彬や西郷は兵を率いて京へ上る予定だったが、その途中で島津斉彬が病死してしまう。

ショックのあまり西郷は、入水自殺しようとするが、月照に説得されて一命を取り留めた。

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西郷どんが入水自殺!?薩摩のネタバレ

井伊直弼は「安政の大獄」で、反対派の100名あまりに死罪、隠居、罷免などの処分を下した。

月照にも身の危険が迫りつつあったために薩摩へ逃れるが、薩摩藩は後難を恐れて月照殺害を企てる。月照を日向に移送する途中、全てに絶望した西郷は月照と船から入水自殺を図る。

月照は絶命し、生き残った西郷は死んだことになり、薩摩藩から奄美大島へ島送りにされる。

再び薩摩藩に復帰したが、島津久光に背いて今度は沖永良部島に配流される。2度の島送りは安政6年(1859)から5年間にも及んだ。西郷は奄美大島にいる間に、愛加那と結婚し、1男1女を設けた。

西郷が奄美大島にいる頃、井伊直弼の厳しい弾圧に怒った水戸藩の脱藩者が、安政7年に桜田門で井伊直弼を襲撃する。これが「桜田門外の変」である。

「桜田門外の変」で幕府の権威が失墜したときに、島津久光は薩摩から出兵する計画を立てる。中央政界に顔の効く西郷が、沖永良部島から薩摩へ呼び戻されるが、西郷は島津久光の計画に反対する。

卒兵上洛は実行されたが、島津久光に反対した西郷は、今度は徳之島に流罪になる

薩摩から京へ上った薩摩藩は内輪もめを起こし、死傷者の出る「寺田屋騒動」を起す。

さらに、江戸で一橋慶喜を将軍の後見にした島津久光は薩摩へ戻る途中に、騎馬のイギリス兵が行列を乱したとしてイギリス人一人を殺してしまう。

世にいう文久2年(1862)の「生麦事件」である。

西郷どん 牢屋で野ざらしに…

徳之島で処分を待っていた西郷は、家族との再会を果たしたのもつかの間で、今度は沖永良部島へ遠島になる。格子だけの牢屋で野ざらしという過酷な環境のもと、西郷はみるみるうちに痩せて行った。

その頃、天皇を尊ぶ尊皇攘夷派(そんのうじょういは)、三条実美(さんじょうさねとみ)らが実権を握り、江戸幕府の徳川家茂に尊皇攘夷を実行することを約束させる。

イギリスの生麦事件の犯人処刑と賠償金の要求に対して薩摩藩ははぐらかしを続けた。交渉中にイギリスが錦絵湾に艦艇を7隻停泊させたこところ薩摩藩が攻撃し、薩英戦争が勃発した。

しかし、イギリスが圧倒的な軍事力で反撃し、戦いは3日間で終わり、薩摩藩はイギリスを和平を結ぶことになる。薩英戦争のことは西郷にも届いていたが、戦争が終わってイギリスが引き上げたことから、西郷は沖永良部島からの脱走を思いとどまる。

尊皇攘夷を求める長州藩に対抗するために、薩摩藩は会津藩と手を結んで開国を実現しようとしていた。そこで元治元年(1864)に、西郷の帰藩が決定する。沖永良部島を出た西郷は、奄美大島に立ち寄り妻子と時を過ごすが、愛加那と会ったのはいとここれが最後となった。

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西郷どん 倒幕を考える

同年、「池田屋事件」で弾圧を受けた長州藩が見返りに「禁門の変」を起こして反撃しようとするが、西郷が鎮圧を図った。

西郷は長州藩の征伐に乗り気だったが、江戸幕府の腐敗ぶりを勝海舟から聞いて失望する。そして、坂本龍馬や中岡慎太郎と交流するうちに、倒幕を考えるようになる

 

急進的に尊皇攘夷を進めようとする長州藩に対して、薩摩藩と会津藩は孝明天皇を説得してクーデターを起こし、尊皇攘夷派の三条実美らを京から追放する。これが「八月十八日の政変」である。

 

坂本龍馬は、神戸海軍操練所の塾頭を務めていたが、塾生が池田屋事件や禁門の変に関係していたことから操練所は廃止され、坂本龍馬と塾生は行き場を失う。海軍力の立て直しを図っていた薩摩藩は、坂本龍馬と塾生30名の受け入れを決定する。

 

慶応元年(1865)、第一次長州征伐が終わった西郷は、任務を解かれ小倉から鹿児島に戻り、周囲の勧めで糸子(イト)と三度目の結婚をする。そしてこれが最後の妻であった。

第一次長州征伐で幕府が強い処分を課そうとしていたが、薩摩藩は朝廷に働きかけてこれを阻止した。こうして幕府と薩摩藩の溝はどんどん深まっていたが、薩摩藩は朝廷の敵となっていた長州藩と手を結ぼうとする。その間を取り持ったのが坂本龍馬と中岡慎太郎である

西郷どん ネタバレ ついに倒幕へ

しかし、長州藩の制裁を諦めきれない江戸幕府は、慶応2年(1866)に10万人の兵士を送り込んで第二次長州征伐を開始する。

このとき薩摩藩は長州藩と密約を結んでいて、兵を出さなかった。薩摩藩や坂本龍馬が結成した亀山社中と言う組織から援助を受けていた長州藩は、最新鋭の武器で幕府軍を撃破し、翌年に終戦を迎えた。

第二次長州征伐のときに徳川家茂は急死し、徳川慶喜が将軍となる。それから20日後に孝明天皇が急死する。この機会に幕府より優位に立とうとする薩摩藩は、四侯会議を開くが何も決まることなく決裂する。

薩長同盟の立役者の一人、中岡慎太郎は武力で倒幕を計画していたが、土佐藩も味方に引き入れることに成功する。

慶応3年(1867)1,000人の兵を率いて大阪に到着していた薩摩藩は武力で倒幕しようとしていたが、土佐藩が江戸幕府の政権を天皇に返上する大政奉還を提案したために、薩摩藩とと薩摩藩の同盟は解消する。

これに対し再度武力で討幕しようとしていた薩摩藩の西郷や大久保利通らは、長州藩の木戸孝允や広沢真臣らと「討幕の密勅」を交わした

ところが、徳川慶喜は慶応3年10月14日に大政奉還によって政権を天皇に返したため、薩長同盟は討幕の理由を失ってしまう。

しかし、徳川慶喜は大政奉還後も実権を握り続けた。同年11月13日には、京の近江屋で坂本龍馬と中岡慎太郎が、何者かによって暗殺された。

 

大政奉還後、徳川慶喜の勢力を阻止するために、薩摩藩、長州藩、芸州藩は朝廷から德川派を一掃した。そして、「王政復古の大号令」により西郷らの討幕派が新体制を発足し、実権を握ることに成功する。

 

だが、徳川慶喜の支配下にある幕軍が薩摩藩の挑発に乗り、鳥羽伏見の戦いが勃発し、戊辰(ぼしん)戦争へと発展する。旧幕府軍の15,000人に対して薩摩藩、長州藩の新政府軍は5,000人だったが数日で、新政府軍が圧勝した。徳川慶喜は大坂城から江戸へと退去した。

 

新政府軍は次に江戸へ進撃を進めたが、徳川慶喜が篤姫を通して命乞いをし、戦いは免れて江戸城無血開城となった。しかし、まだ新政府軍と敵対関係にあった北陸、東北の諸藩も、戦いの末新政府軍が支配下に治めた。

 

追い詰められた旧幕府軍は、蝦夷(北海道)にまで逃げたが、明治元年(1868)に五稜郭へ入城し、箱館で政権を樹立する。これに対して新政府軍は明治2年に進軍を開始し、「五稜郭の戦い」が始まった。ここでも旧幕府軍は劣勢で、新政府軍に対して無条件降伏を決定し、戊辰戦争は終結した。

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西郷どん 戊辰戦争後は…

戊辰戦争が終わって、新政府の大久保利通(おおくぼとしみち)は、西郷の力を借りて廃藩置県を断行した。

新政府の岩倉具視(いわくらともみ)は、8か月間も政府首脳らと共に欧米の視察に出てしまったことから、内政が停滞することになってしまった。

新政府は戊辰戦争などの戦費がかさみ財政難となっていたが、徴兵制の問題もあった。士族を軍隊にする士族軍隊派と一般国民を徴兵する平民軍隊派が対立したが、西郷がこれを鎮めた。

最終的に西郷は平民軍隊派を支持し、徴兵制が施行されて国民軍が創設された。西郷は陸軍元帥を経て陸軍大将となった。

朝鮮との国交を回復しようとしていた新政府は、西郷を大使として朝鮮に派遣しようとしていたが、岩倉具視らの外遊組が帰国すると、西郷の案に反対した。この結果を踏まえて、西郷と薩摩人らは鹿児島へと大挙引き上げた。

1870年代、⽇本では明治政府への不満が爆発し、⼠族反乱や農⺠反乱が相次いでいた。「佐賀の乱」「秋⽉の乱」「萩の乱」「敬神党の乱」など、当時の⽇本は⾮常に混乱を極めていた。

そんな中で⼤久保利通などが運営する政治に不満を抱いていた⼠族たちは、誰を盟主とすれば、明治政府に勝利できるか︖と考えた結果、⻄郷隆盛に⽬をつける。

 

しかし⻄郷は、⼠族に担がれることを避けるため、⿅児島で「私学校」という学校を作り、狩猟や農作業などの隠遁⽣活をおくっていた。

隠居生活を送っていた西郷に、渋谷精一らが「私学校」の開校を要請した。⼤久保利通は⻄郷隆盛を危険視していたので、密偵を近づけていた。

西郷どんの結末

明治10年(1877)私学校の偵察を進める政府と私学校の生徒達が対立し、薩摩軍が出兵することになった。3万の⻄郷軍は熊本に向けて進軍し、明治政府軍と激突し⻄南戦争に突入する。

薩摩軍は熊本城を包囲したが、⼤久保利通による補給を受けた明治政府軍は、圧倒的な物量によって⻄郷軍を制圧。

その他の方面で政府軍が勝利し、最終的に熊本城の包囲は敗れてしまう。

人吉で抗戦を続けた薩摩軍だが、政府軍に攻め込まれるとあっと言う間に陥落してしまう。

 

人吉から宮崎を経て、鹿児島へとやっとの思いで帰還した西郷とわずかな兵は、私学校を占拠する。

明治10年9月24日、城山の洞窟にこもっていた西郷と40名あまりの将士は、政府軍に包囲される。股と腹に被弾した西郷は明治10年(1877年)9⽉24⽇切腹し、残った者も戦死して西南戦争は終わった。

その⾸は、明治政府軍に⾸を取られることを恐れたものたちの⼿で埋葬された。

「すべての民が幸せに暮らしてこそ日本国は強くなる」と信じ、人を愛し、故郷を愛し、国を愛し、民を愛し、“見返りを求めない愛”を与え続け、会った誰もが愛さずにはいられなかった、男の中の男の波乱万丈の人生だ。

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